2019/02/12

【外務省】日本の領土をめぐる情勢 北方領土(8) 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集

1.意義

  この共同資料集(The joint compendium of materials on the History of the Territorial Issue)は、1992年に日・露外務省が初めて共同作成した北方領土問題に関する資料集です。
  我が国は、それ以前にもロシア語版を含む北方領土問題の広報資料を作っていましたが、ロシア側と共同でこの資料を作成し、ロシア国民に幅広く配布できたことは、かつてソ連が北方領土問題の存在すら否定していたのに比較すれば劇的な変化であり、ロシア世論の啓発のためにも画期的なことでした。



2.経緯

  この共同資料集の作成については、1991年秋に当時のソ連側より非公式に提案があり、1992年3月20日の第1回日露外相会談で正式に決定されました。その後、1992年9月29日に両国で同時に発表しました。



3.新版について

  2000年9月のプーチン大統領公式訪日の際に両国首脳の間で署名された「平和条約問題に関する声明」において、この1992年発表の資料集を増補するものとして、1993年以降の時期にかかわる資料を含めた新版を準備することが合意されました。これを受け、翌2001年1月の日露外相会談時に、その新版の内容につき意見の一致をみたものです。



1992年版 共同作成資料集(PDF)

序文

  この資料集は、日露両国国民が、日本とロシアとの間の「領土問題」を正しく理解するための一助として、日露両国外務省が共同で作成したものである。

  クリル諸島への日本人の進出が南から、ロシア人の進出が北から行われた結果、19世紀半ばまでに択捉島とウルップ島との間に日露の国境線が形成された。1855年2月7日付けの日魯通好条約により、この国境線が法的に画定され、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島は日本領、ウルップ島以北の諸島はロシア領として平和裡に確定した。

  1875年5月7日付けの樺太千島交換条約により、樺太全島における日本の権利と引き替えに、ウルップ島からシュムシュ島までの諸島が、ロシアから日本に平和裡に譲与された。

  1895年6月8日付けの日露通商航海条約の締結時に1855年条約は効力を失ったが、同時に、1875年の樺太千島交換条約の効力が確認された。

  1905年9月5日付けのポーツマス講和条約に従い、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太南部を譲与した。当時の日露両国の文書に照らして見れば、1855年の日露国交樹立以降、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属がロシアにより問題にされたことは一度もなかった。

  日本とソ連邦が外交関係の樹立を宣言した1925年1月20日付けの日ソ関係の基本法則条約において、ソ連邦は、1905年のポーツマス条約が有効である旨同意した。

  1941年8月14日付けの英米共同宣言(大西洋憲章)~ソ連邦は同年9月24日に参加~においては、米国及び英国は「領土的その他の増大を求めず」、また、「関係国民の自由に表明せる希望と一致せざる領土的変更の行わるることを欲せず」と述べられている。

  1943年11月27日付けの米国、英国、中国のカイロ宣言~ソ連邦は1945年8月8日に参加~においては、「同盟国は自国のために何等の利得をも欲求するものにあらず、また、領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」と述べられている。同時に、同宣言では、連合国の目的は、就中「暴力及び貧欲により日本国が略取したる地域」から日本を駆逐することにある旨述べられている。

  1945年2月11日、米英ソ三国の首脳により署名されたヤルタ協定は、ソ連邦の対日参戦の条件の一つとして、「ソ連邦へのクリル諸島の引渡し」を規定した。ソ連邦は、ヤルタ協定により、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を含むクリル諸島のソ連邦への引渡しの法的確認が得られたと主張していた。日本は、ヤルタ協定は領土の最終的処理に関する決定ではなく、また当事国でない日本は法的にも政治的にもヤルタ協定に拘束されないとの立場である。

  1945年7月26日付けのポツダム宣言~ソ連邦は1945年8月8日に参加~は、カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また、日本の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸小島に限られる旨を規定している。日本は、同年8月14日、ポツダム宣言を受諾し降伏した。

  1941年4月13日署名の日ソ中立条約により、日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重し合う義務を負っていた。同条約はまた、5年間効力を有する旨、及びいずれの一方も有効期限満了の1年前に廃棄通告をしない場合には、自動的に5年間延長されたものと認められる旨、規定していた。

  1945年4月5日のソ連邦による廃棄通告により、同条約は1946年4月25日に失効することとなった。ソ連邦は1945年8月9日、日本に対し宣戦布告を行った。

  ソ連邦は、8月末から9月初めにかけて択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を占領した後、1946年2月2日付けの最高会議幹部会令で、これらの島々を当時のロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国に編入した。

  1951年9月8日署名のサン・フランシスコ平和条約は、日本がクリル諸島及び南樺太に対する権利、権原及び請求権を放棄することを規定している。しかし、同条約は、これらの領土がどの国に帰属するかについては規定していない。ソ連邦は同条約に著名しなかった。

  サン・フランシスコ条約で日本が放棄したクリル諸島の範囲については、日本の国会における西村条約局長の答弁(1951年10月19日)、森下外務政務次官の答弁(1956年2月11日)、同条約の起草国の一である米国の国務省による対日覚書(1956年9月7日)等において言及されている。

  ソ連邦がサン・フランシスコ平和条約に署名しなかったため日ソ間で別個の平和条約締結交渉が行われたが、領土条項に関する立場の相違から合意に至らなかった。

  そこで1956年9月29日付けの松本日本政府全権代表とグロムイコ・ソ連邦第一外務次官との間の往復書簡において、両国間の外交関係を回復した後に領土問題を含む平和条約締結交渉を継続する旨が了解された。上記書簡はまた、日ソ両国間の外交関係の再開と、日ソ共同宣言の署名への道を開いた。

  1956年10月19日付けの日ソ共同宣言は、両国間の戦争状態を終結させ、外交・領事関係を回復させた。日ソ共同宣言においては、日ソ両国が正常な外交関係の回復後、平和条約締結交渉を継続すること、また、ソ連邦が平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意することが規定されている。同年12月5日、日本の国会は日ソ共同宣言を承認した。同年12月8日、ソ連邦最高会議幹部会は日ソ共同宣言を批准した。批准書の交換は、同年12月12日、東京において行われた。

  1960年、新日米安保条約の締結に際し、ソ連邦は歯舞群島及び色丹島の返還の前提として、日本領土からの全外国軍隊の撤退という条件を新たに課した。これに対し日本政府は、両国の議会により批准された条約である日ソ共同宣言の内容を一方的に変更し得ない旨反論した。

  その後、ソ連邦の側からは、日本とソ連邦との関係における領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みであり、領土問題はそもそも存在しないとの立場が述べられるようになった。

  1973年10月にモスクワで行われた日ソ首脳会談の結果発表された、10月10日付けの日ソ共同声明においては、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与する」旨述べられている。1991年4月に東京で行われた日ソ首脳会談の結果発表された、4月18日付けの日ソ共同声明においては、双方は「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について」話し合いを行った旨述べられている。また、同声明では、平和条約締結作業の加速化の重要性が強調されている。

  1991年12月に独立国家共同体が創設され、日本によってロシア連邦がソ連邦と継続性を有する国家として承認された後、日本とソ連邦との間で行われて来た平和条約交渉は、日本とロシア連邦との間で継続されている。

  双方は、領土問題を「法と正義」に基づき解決する必要があるとの共通の理解を堅持している。

  1991年11月、エリツィン大統領は、ロシア国民への手紙において、日本との関係における最終的な戦後処理の達成の必要性を指摘しつつ、これらの島々の住民の利益に配慮していく旨述べている。日本政府も、領土問題の解決にあたり、現在これらの島々に居住しているロシア国民の人権、利益及び希望を十分に尊重していく意向である旨明らかにしている。

  日本及びロシアの読者に供される本資料集には、二国間の領土確定に関する日露、日ソ間の基本文書及び本問題と関係のある一連の他の文書及び資料を収録した。

1992年9月
日本国外務省
ロシア連邦外務省



1.1855年以前の歴史

(6)ニコライ一世のプチャーチン提督宛訓令(1853年)(抜粋)

一八五三年二月二十四日 皇帝陛下署名
一八五三年二月二十七日 第七百三十号

  長崎表及び御老中宛ての書簡(オランダ語訳付き)は本書に別添の行嚢にて送付するが、これらの内より重要な御老中宛ての書簡の内容につき、外務省として以下の通り説明しておくべきと考える。

  この書簡(長崎表宛ての書簡と同様、その写しを別添してある)においては、我々との通商関係開設に関する日本側への提案、及び追って指定する我々の商船(必要があれば軍艦も)に対する日本の港湾への寄港許可に関する提案の他、露日間の国境画定の要求も提示してある。国境問題に直ちに取り掛かるとの考えは、根拠のあるものと思われる。なぜなら、このことを通じ、我々はいわば日本人が我々と交渉に入ることを余儀なくさせ得るからである。他の場合であれば、彼らは自らの慣習により直ちにこれを回避し、否定的な回答を出すであろうが、国境を明確にしたいとの我々の要望は、彼らにとり拒絶し難いものである。正にこの問題を用いることで、我々は日本政府から一層の譲歩を引き出すことが出来る。

  この国境問題に関する我々の要望は、(我々の利益を揖なわない範囲で)可能な限り寛大なものであるべきである。なぜなら、通商上の利益というもう一つの目的の達成こそが、我々にとり真の重要性を持つからである。クリル諸島の内、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と述べて構わない。これにより(今日既に事実上そうであるように)我が方は同島の南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる。日本政府が予想に反してウルップ島に対し自らの権利を主張する場合には、先方に対し、この島が我々のあらゆる地図中でロシア領と記載されていること、また、アメリカ及びその種々の水域におけるロシア領を管轄する露米会社が、他の我々のクリル諸島と同様ウルップ島を支配下に置き、更には住民すら有していることは、その帰属についての最良の証拠をなすものであり、一般にこの島はクリル諸島における我々の領土の境とみなされている旨を説明し得よう。



(7)日魯通好条約第2条(1855年)

日魯通好条約
安政元年甲寅十二月二十一日(西暦一八五五年第二月七日魯暦第一月二六日)於下田調印

第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との問に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし



2、 1905 年まで

(1)樺太千鳥交換条約第2款(1875年)

樺太千島交換条約
明治八年(一八七五年)五月七日「セント・ピータースブルグ」ニ於テ記名
明治八年(一八七五年)八月二十二日批准
明治八年(一八七五年)八月二十二日東京二於テ批准書交換

第二款
全露西亜国皇帝陛下ハ第一款二記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤二至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲネコタン」島第六「ハリムコタン」島第七「エカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チェルポイ」並ニ「ブラット、チェルポエフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ビ君主二属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下二譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国二属シ東察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス



(2)日露通商航海条約第18条及び附属宣言(1895年)

通商航海條約
明治二十八年六月八日聖彼得斯堡二於テ調印
同 年九月九日批准
同 年九月十日東京二於テ批准書交換

第十八條
  本條約ハ其ノ寛施ノ日ヨリ兩締盟國二現存スル安政元年十二月二十一日即千八百五十五年一月二十六日締結ノ通好條約、安政五年七月十一日即千八百五十八年八月七日締結ノ修好通商條約、慶應三年十一月二十八日即千八百六十七年十二月十一日締結ノ新定約書及之ニ附属スル一切ノ諸約定二代ハルヘキモノトス而シテ該條約及諸約定ハ右期日ヨリ総テ無効ニキシ隋テ露西亜國力日本帝國ニ於テ執行シタル裁判権及該権ニ属シ又ハ其ノ一部トシテ露西亜國臣民力享有セシ所ノ特典、特権及免除ハ本條約寛施ノ日ヨリ別ニ通知ヲナサス全然消滅ニ蹄シタルモノトス而シテ此等ノ裁判管轄権ハ本條約寛施後二於テハ日本帝國裁判所二於テ之ヲ執行スヘシ



同上附属宣言書竝ニ外交文書
樺太千島交換條約ノ効力ニ關スル宣言
明治二十八年六月八日聖彼得斯堡二於テ

本日締結ノ條約第十八條ハ千八百七十五年四月二十五日(五月七日)日本國皇帝陛下卜全露西亜國皇帝陛下トノ間二締結セラレタル條約同年八月十日(八月二十二日)東京ニ於テ調印セラレタル附録ニ關係ナキモノニシテ此ノ二種ハ尚依然効力ヲ有スルモノトス此ノ旨下名二於テ宣言ス

千八百九十五年六月八日(五月廿七日)
聖彼得斯堡ニ於テ



(3)ポーツマス講和条約第9条(1905年)

日露講和条約(ポーツマス講和条約)
明治三十八年(一九〇五年)九月五日「ポーツマス」二於テ署名
明治三十八年 (一九〇五年) 十月十四日批准
明治三十八年 (一九〇五年) 十一月二十五日
「ワシントン」ニ於テ批准書交換

第九条
露西亜帝国政府ハ薩哈嗹島南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島嶼並該地方ニ於ケル一切ノ公共営造物及財産ヲ完全ナル主権卜共ニ永遠日本帝国政府ニ譲与ス其ノ譲与地域ノ北方境界ハ北緯五十度卜定ム〔後略〕



3、第一次世界大戦後から第二次世界大戦直後まで

(1)日ソ関係の基本的法則に関する条約第2条及び声明書(1925年)

日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦との間の関係を律する基本的法則に関する条約
大正十四年(一九二五年) 一月二十日北京二於テ記名
大正十四年(一九二五年) 二月二十五日批准
大正十四年(一九二五年) 四月十五日北京ニ於テ批准書交換

第二条
  「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ハ千九百五年九月五日ノ「ポーツマス」条約ヵ完全ニ効力ヲ存続スルコトヲ約ス千九百十七年十一月七日前ニ於テ日本国卜露西亜国トノ間ニ締セラレタル条約、協約及協定ニシテ右「ポーツマス」条約以外ノモノハ両締約国ノ政府間ニ追テ開カルヘキ会議ニ於テ審査セラルヘク且変化シタル事態ノ要求スルコトアルへキ所ニ従ヒ改訂又ハ廃棄セラレ得ヘキコトヲ約ス



「ポーツマス」条約締結ノ責任ニ関スル声明書
大正十四年 (一九二五年)一月二十日北京ニ於テ署名

「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦及日本国間ノ関係ヲ律スル基本的法則ニ関スル条約ニ本日著名スルニ当り「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ全権委員タル下名ハ本国政府ニ於テ千九百五年九月五日ノ「ポーツマス」条約ノ効力ヲ承認スルコトハ同国政府ニ於テ右条約ノ締結ニ付前帝政府卜政治上ノ責任ヲ分ツコトヲ何等意味セサルコトヲ声明スルノ光栄ヲ有ス

一九二五年一月二十日北京ニ於テ



(2)大西洋憲章(1941年)

英米共同宣言(大西洋憲牽) (抜粋)
(一九四一年八月十四日)

アメリカ合衆国大統領及聯合王国二於ケル皇帝陛下ノ政府ヲ代表スル「チャーチル」総理大臣ハ、会合ヲ為シタル後両国ヵ世界ノ為一層良キ将来ヲ求メントスル其ノ希望ノ基礎ヲ成ス両国国策ノ共通原則ヲ公ニスルヲ以テ正シト思考スルモノナリ。
一、両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス。
二、両国ハ関係国民ノ自由二表明セル希望ト一致セサル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セス。



(3)大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言(1941年)

ロンドン同盟国会議における大西洋憲章への
参加に関するソ連邦政府宣言 (抜粋)
(一九四一年九月二十四日)

  ソ連邦は、その対外政策において、諸国民の主権尊重という崇高な原則を遂行してきたし、又、遂行している。ソ連邦は、その対外政策において、民族自決の原則を指針としてきたし、又、指針としている。ソ連邦の国家体制の基盤となっている、その国家政策の全体を通して、ソ連邦は、国家の主権と平等の承認を基礎とするとの原則に立脚している。

  ソ連邦は、この原則にたって国家の独立と自国の独立と自国領土の不可侵に対する各国民の権利と自国の経済的及び文化的繁栄を保障するために適当であり、且、必要と認める社会体制を確立し、そのような政治体制を選ぶ権利を擁護している。

  ソ連邦は、全ての自国の政策及び他国民とのあらゆる関係においてこれらの諸原則を指針としつつ、首尾一貫性と決意を持って、諸国民の主権のあらゆる侵害、侵略と侵略者、諸国民に自分の意志をおしつけて彼らを戦争にまき込もうとする侵略国のありとあらゆる試みに、常に反対してきた。ソ連邦は、これらの諸原則の勝利と平和と諸国民の安全に対する闘争の有効な手段の一つとして、侵略者に対する集団行動の必要性を弛みなく、断固として、主張してきたし、現在も主張している。

  ソ連邦は、自由を愛する諸国民を侵略者の側からのあらゆる危険から守るという課題の抜本的な、解決に努力するとともに、同時に、全面完全軍縮のための闘争を行ってきた。 侵略者のいかなる攻撃にも十分に対応できる準備ができているソ連邦は、同時に侵略の犠牲となり祖国の独立のために闘っている諸国民に即時全面的支援を与える用意を整えて、自国の国境の保全と不可侵を尊重する全ての国家との平和的かつ善隣的な関係をもつために努力することを基盤としてその対外政策を、常に組立ててきたし、現在もそうしている。

  上記の諸原則に立脚し、かつ多くの行動と文書に反映されているソ連邦が常にたゆみなく実施している政策に基づいて、ソ連邦政府はルースベルト米国大統領とチャーチル英国首相の宣言の基本的原則、現在の国際情勢において極めて大ぎな意義を有している主要な諸原則に同意することを表明する。

(出典、ソ連条約集より訳出)



(4)カイロ宣言(1943年)

カイロ宣言
(一九四三年十一月二十七日)

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明発セラレタリ

「各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ

三大同盟国ハ海路、陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ

右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満州、台湾及膨湖島 ノ如き日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在り日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立 ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

右ノ目的ヲ以テ右三大同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齋スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スベシ」



(5)ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)

  「極東の軍事問題につき幾つか議論した後、スターリン元帥は、ソ連邦の対日参戦のための政治的条件について議論したい旨述べた。彼は、この点につき既にハリマン大使と話してある旨述べた。

  大統領は、右会談に関する報告は受領しており、自分は終戦に際し樺太の南半分とクリル諸島がロシア側に引渡されることに何の問題もないであろうと思う旨述べた。

(中略)

  スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加しなければならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかである旨述べた。彼らは、ソ連邦の存在そのものを脅かしたドイツに対する戦争は明確に理解したが、何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手になぜロシアが戦争に入るのか理解しないであろう。他方、彼は、もし政治的諸条件が満たされれば、国民は右に関わる国益を理解し、かかる決定を最高会議に説明することも格段に容易となろう、と述べた。」

(米国外交文書、一九四五年、七百六十八-七百六十九頁、外務省仮訳)

  スターリンは、ソ連邦の対日参戦のための政治的条件についてはいかなる状況であるか承知したいと述べた。これは、彼即ちスターリンが、モスクワでハリマンと話した政治的諸問題のことである。

  ルーズヴェルトは、サハリン南部とクリル諸島はソ連邦に引渡されるであろうと答えた。

(「三大連合国指導者のクリミア会議」  、モスクワ、政治文献出版社、一九八四年、百二十九頁)



(6)ヤルタ協定(1945年)

(一九四五年二月十一日)

  三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は、ソヴィエト連邦が、ドイツが降伏し、かつ、欧州における戦争が終了した後二箇月又は三箇月で、次のことを条件として、連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。
一 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること。
二 千九百四年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利が次のとおり回されること。
(a)樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソヴィエト連邦に返還されること。
(b)大連港が国際化され、同港におけるソヴィエト連邦の優先的利益が擁護され、かつ、ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権が回復されること。
(c)東支鉄道及び大連への出口を提供する南満州鉄道が中ソ合同会社の設立により共同で運営されること。ただし、ソヴィエト連邦の優先的利益が擁護されること及び中国が満州における完全な主権を保持することが了解される。
三 千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。

  前記の外蒙古並びに港及び鉄道に関する協定は、蒋介石大元帥の同意を必要とするものとする。大統領は、この同意を得るため、スターリン大元帥の勧告に基づき措置を執るものとする。

  三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。

  ソヴィエト連邦は、中国を日本国の覊絆から解放する目的をもって自国の軍隊により中国を援助するため、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中国との間の友好同盟条約を中国政府と締結する用意があることを表明する。

ジェー・スターリン
フランクリン・ディー・ルーズヴェルト
ウィンストン・エス・チャーチル



(7)ポツダム宣言(1945年)

ポツダム宣言
(一九四五年七月二十六日)

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ



(8)日本政府のポツダム宣言受諾通告(1945年)

ポツダム宣言受諾通告
(一九四五年八月十四日 東郷外務大臣ヨリ在瑞西加瀬公使宛公電)
米、英、蘇、支四國二封スル八月十四日附帝國政府通告

「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニ關スル八月十日附帝國政府ノ申入並ヒ二八月十一日附「バーンズ」米國國務長官發米英ソ支四國政府ノ回答二關連シ帝國政府ハ右四國政府二封シ左ノ通り通報スルノ光榮ヲ有ス

一、天皇陛下ニオカセラレテハ「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニ關スル詔書ヲ發布セラレタリ

二、天皇陛下ニオカセラレテハソノ政府及ヒ大本営ニ封シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ寛施スル為必要トセラルヘキ條項ニ署名スルノ権限ヲ興へ且ツ保障セラルルノ用意アリ又陛下ニオカセラレテハ一切ノ日本國陸、海、空軍官憲及右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ封シ戦闘行為ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記條項寛施ノ為連合國最高司令官ノ要求スルコトアルヘキ命令ヲ發スルコトヲ命セラルルノ用意アリ



(9)日ソ中立条約(1941年)

日本国及ソヴィエト連邦間中立条約
一九四一年四月十三日「モスコー」ニ於テ署名
一九四一年四月二十五日両国批准

大日本帝国及ソヴィエト連邦ハ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ鞏固ナラシムルノ希望二促サレ中立条約ヲ締結スルコトニ決シ左ノ如ク協定セリ

第一条 両締約国ハ両国間二平和及友好ノ関係ヲ維持シ相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二条 締約国ノ一方ヵ一又ハ二以上ノ第三国ヨリ軍事行動ノ対象卜為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的二延長セラレタルモノト認メラレルヘシ

第四条 本条約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ

〔以下略〕

松岡洋右
建川美次
ヴェー・モロトフ



(10)日ソ中立条約の廃棄に関するソ連覚書(1945年)

日ソ中立条約廃棄に関するソ連覚書
(一九四五年四月五日)

日「ソ」中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル一九四一年四月十三日調印セラレタルモノナルカ爾来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ旦「ソ」連ノ同盟国タル米英卜交戦中ナリ斯ル状態二於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ

依テ同条約第三条ノ規定二基キ「ソ」連政府ハ茲二日「ソ」中立条約ハ明年四月期限満了後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ



(12)連合軍最高指令部訓令(SCAPIN)第677号(1946年)

連合軍最高指令部訓令(SCAPIN)第六百七十七号(抜粋)
(一九四六年一月二十九日)

三 この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。

日本の範囲に含まれる地域として
日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯三十度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約一千の隣接小島嶼

日本の範囲から除かれる地域として
(a) 欝陵島、竹島、済州島。
(b) 北緯三〇度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。
(C) 千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島

六 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第八条にある島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。

(日本占領及管理重要文書集 第一巻基本篇)



4、サン・フランシスコ平和条約

(1)サン・フランシスコ講和会議におけるダレス米国代表発言(1951年)

米国代表ダレスの演説 (抜粋)
(一九五一年九月五日)

  第一章は、戦争状態を終了し、日本国民の完全なる主権を認めるものであります。その認められた主権は「日本国民の主権」である点に注意しましょう。日本主権の領域はどうでしょうか。第二章においてそれを取扱っております。日本は日本に関する限り六年前現実に実施されたポツダム降伏条項の領土規定を正式に承認しております。

  ポツダム降伏条項は、日本及び連合国が全体として拘束される平和条項の定義のみを規定しております。若干の連合国の間には若干の私的了解がありましたが、日本も又他の連合国もこれらの了解に拘束されたのではありません。従って、本条約は、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びその他の諸小島に限られるべきことを規定した降伏条項第八条を具体化しております。第二章第二条に包含されている放棄は、厳格に且つ慎重にその降伏条項を確認しています。第二条(C)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります。

(外務省 サン・フランシスコ会議議事録)



(4)サン・フランシスコ平和条約第2条及び第25条(1951年)

日本国との平和条約 (抜粋)
一九五一年九月八日 署名

第二条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあった太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

第二十五条
  この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によっても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。



5、 日ソ国交正常化交渉及びそれ以降

(3)日ソ共同宣言第9項(1956年)

日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言 (抜粋)
昭和三十一年十月十九日 モスクワで署名
同年十二月七日 批准の閣議決定
同年 同月十二日 東京で批准書交換

九 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。

  ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

2001年版 共同作成資料集(PDF)

1.日露関係に関する東京宣言

2 日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、両国関係における困難な過去の遺産は克服されなければならないとの認識を共有し、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する。この関連で、日本国政府及びロシア連邦政府は、ロシア連邦がソ連邦と国家としての継続性を有する同一の国家であり、日本国とソ連邦との間のすべての条約その他の国際約束は日本国とロシア連邦との間で引き続き適用されることを確認する。

  日本国政府及びロシア連邦政府は、また、これまで両国間の平和条約作業部会において建設的な対話が行われ、その成果の一つとして千九百九十二年九月に「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」が日露共同で発表されたことを想起する。

  日本国政府及びロシア連邦政府は、両国間で合意の上策定された枠組みの下で行われてきている前記の諸島に現に居住している住民と日本国の住民との間の相互訪問を一層円滑化することをはじめ、相互理解の増進へ向けた一連の措置を採ることに同意する。

千九百九十三年十月十三日に東京で
日本国総理大臣    細川護煕
ロシア連邦大統領   B.N.エリツィン



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北方領土(8) 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集



【ソース】外務省:日本の領土をめぐる情勢 > 北方領土 > 資料コーナー > 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集
【ソース】外務省:日本の領土をめぐる情勢 > 北方領土

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